経済の時代の終焉(読書日記)

井手先生の本を,一度一冊本を読んでみたいと考えていた。
読了感をなんと表現すれば良いのだろう。
歴史の
本なのか,経済の本なのか,政治の本なのか,哲学の本なのか,その全てであって,全てでないのか?
僕は,政治家でも,学者でも,社会活動家でもなく,この本も,今の自分が,日々抱いている感覚や感情と照らし合わせながら読んだ。
序章 さまよう「公」と「私」の中で,アダム・スミスの「見えざる手」も,「同感」(sympathy)が基礎とされていること,格差が広がり,他者へのつながり,共感が失われて行く中で,中高所得者層が救済のための負担から逃れるために血眼になっているという部分には,ドキッとした。
中所得者であろう僕も,所得控除の法的手段をいかに使い切るかに血眼になっているからだ。
「第2章 なぜ私たちの賃金は下落するのか」の中で,僕にとって特に面白かったのは,BIS規制と国際会計基準が,労働者の賃金下落を後押ししたという部分だった。
時価会計の導入が,キャッシュフロー重視の経営を促し,キャッシュフローを確保するために人件費が標的にされるという流れだ。
「会計基準」と聞いて,すぐ思い浮かぶのは,旧長銀事件(最高裁平成20年7月18日第二小法廷判決)だ。
この事件を,誤解を恐れず,ひとことで言うと,関連ノンバンクに対する貸出金評価を時価にそってより厳しくやれという平成10年新基準が,平成10年当時唯一の公正なる会計慣行と言えるのかという点が争われた事件である。
最高裁は,平成10年新基準が,平成10年当時唯一の公正なる会計慣行と言えないとしたが,この事件の古田捕捉意見「バブル期以降の様々な問題が集約して現れたものであったとしても,企業の財務状態をできる限り客観的に表すべき企業会計の原則や企業の財務状態の透明性を確保することを目的とする証券取引法における企業会計の開示制度の観点から見れば,大きな問題があったものであることは明らかであると思われる。」という部分には,深くうなづいてしまった。
時価に沿って資産(債権・不動産等)を評価すべきことはある意味当然だ。
BS,PLだけでは容易に見抜けない,粉飾決算や,粉「悪」決算(解雇事件や計画倒産で稀に使われる)も,キャッシュフロー計算書を見ると,その端緒を掴めることもある。
その意味で,時価重視,キャッシュフロー重視は,基本肯定されるべきものだと僕は思うけれども,それが必然的に労働者の賃金を下落させるものであるならば(井手先生の本を読むまではこの視点が落ちていた),企業を儲けさせて労働者の待遇を挙げるアプローチは,決定的に間違っている。
個々人の生活保障は,この方法では実現されない。
新自由主義,グローバリズム,会計ビッグバンによって,資本主義が先祖返りしたのか,学生時代に読んだ,マルクスの「賃労働と資本」がフラッシュバックした。
「終章 経済の時代の終焉」を読んで感じたのは,お金を貯め込めば小金持ちにはなれるかもしれないけれども,社会の中で豊に暮らすことはできないなあという感覚だ。
多少とも余力のある人は必死で貯めこもうとし,余力のない人はない中で必死に払った税金がさらに余力のない人の救済に使われることを拒絶する。
この先にあるのは,ブルーハーツ「トレイントレイン」の歌詞のような
「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く」
の世界だろうと。
誰かが受益者の「選別主義」から,誰もが受益者の普遍主義に,社会は移行していけるのだろうか。

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