なぜ「悪い人」のために頑張るの?

なぜ「悪い人」のために頑張るの?

家族団欒を切り上げて 警察署へ向かう 僕に対し 質問が投げかけられる。

長女7歳,そばで僕の仕事を見ていて,いつか聞かれると思っていたけれど,意外と早かった。

そこで,こんな質問をして見る

①2年3か月前の土曜日、パパのものを壊したよね。壊してないんなら、その証拠を見せてよ。証拠を見せられないから壊したってことでいいね!!

②壊す前から、いつも乱暴に扱ってたよね。いつ壊れても良いと思ってたんだよね。乱暴に扱ってない、壊れても良いと思ってなかったならその証拠を見せてよ。証拠を見せられないなら乱暴に扱って壊れても良いと思ってたってことでいいね!!

こんな時、違うよ!!と言ってくれる人、本当にいらないのかな?

疑われた人が、自分が壊してないことを証明しないと壊したことになってしまって本当に良いのか?
疑われた人が、自分が乱暴に扱っていなかったこと壊れても良いと思っていなかったことを証明しないと重い罪になってしまって本当に良いのか?

疑わしいだけの時は、その人がやったとは考えない方がいいんじゃないの?
疑わしいだけの時は、その人を重く罰しない方がいいんじゃないの?

そうであれば「疑わしきは被告人の利益に」の原則を貫くべきである。

刑事裁判の対象は常に過去にあった事実の存否であり、 判断する人(裁判官と裁判員)はその場面を 見ていないし経験もしていない。
裁判は決して水戸黄門でも大岡越前でもない。

冤罪は量刑でも起こりうる(上の例だと、普段から乱暴に扱っていたか?、普段から壊れてもいいと思っていたか?)。

刑事裁判が過去の事実の存否を証拠によって復元していく作業である以上、 その復元は一方的であってはならない。
そう考えればすべての事件に弁護人が 必要だと 言えないだろうか。

僕の経験上、無罪判決に対する 世論の批判以上に、 裁判の量刑が軽すぎる という世論の批判が 多いように思う。
悪い事をやったことは確実なんだから軽すぎると。

しかし疑わしいだけで 証拠上認定できない事実を 量刑の基礎にしてはならない。

また、量刑は証拠上疑いなく 認定できた 行為と結果によって、概ね決定されなければならない。
なぜなら、法律が行為と結果によって量刑を定めている以上、 行為と結果に釣り合わない刑罰を科すことは、 国民代表である国会が定めた法律をないがしろにすることになるからだ。

そして、 反省だとか謝罪だとか、逆に遺族の峻烈な処罰感情は、狭い範囲での調整の要素に止めるべきである。
反省や謝罪をことさらに重視をすれば、 朴訥 な人より 巧言令色の 人を必要以上に軽くすることになりかねない。
また、必要以上に遺族の処罰感情で量刑に差を設けてしまえば、遺族のいる被害者と、遺族のいない天涯孤独の身で必死に生き抜いてきた被害者とで、 命の価値に差を設けることにつながる。本当にそれで良いのか?

判決文では本人の謝罪反省や、逆に遺族の峻烈な処罰感情に言及されることが多いが、 実は量刑の要素としてはそれほど考慮されていないことが多いのである(この点は分かりにくいが、被告人としてあるいは被害者遺族として裁判を経験したは、よく分かると思う。判決文に反省謝罪と書かれながら大して軽くなっていないし、逆に判決文に遺族の無念は察して余りあり峻烈な処罰感情は重く受け止めるべきであると書かれながら、言うほど重くなっていないと感じられたのではなかろうか?)。

子供には、 僕が国選事件で 世論の批判を一身に浴びるような凶悪な事件を 担当することになったとしても、 共感は無理でも、 多少の理解は してほしいと思う、 親心である。



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