エルサレムのアイヒマン ー 悪の陳腐さについての報告ー
エルサレムのアイヒマン
ー 悪の陳腐さについての報告ー
時に法律書以外の本を読みたくなる。
ということで、 2019年ゴールデンウィーク10連休の二日目は、ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告ー」を通読してみた。
アドルフアイヒマンは、ナチス政権下のドイツの親衛隊将校。「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。
戦後モサドによってイスラエルに連行され、 エルサレムでの裁判によって死刑判決を受け、 1962年6月1日刑死する。
イスラエルの政府や その意を受けた検察官は、 ユダヤ人の虐殺という世界史上の犯罪に関わったアドルフ・アイヒマンが、 いかに悪魔的で残虐で 非人間的な怪物であるかを強調し、人類の敵である悪魔を断罪することこそ 正義にかなうことである ことを明らかにしようとする。
しかし、ハンナ・アーレントによる「エルサレムのアイヒマン」では、 ユダヤ人の大量虐殺に関わったアイヒマンが、 あくまでも何でもなく、どこにでもいるような凡人であるかが克明に描写されていく。
このアーレントの指摘は意外でも何でもない。
現代社会においても 凶悪な犯罪が起こると、 そのものがいかに我々から「隔絶された」 非人間的な人物であって これを断罪することこそが正義にかなう と言う 声はよく聞かれる。
しかし時に被告人と数年に及ぶ裁判を行う過程で繰り返し繰り返しコミュニケーションをする弁護士としては、 凶悪犯と言われる被告人も、ただの人であると思うのである。
アーレントの次の指摘は 非常に具体的である。
「ハウスナー氏の雄弁が華々しくなるにつれ、ガラス箱の中に見える顔はますます蒼ざめ、ますます幽霊のように見えてきた。「これらすべてを行なった怪物がそこに座っている」と指差して叫ばれても、その顔に生気はよみがえらなかった。
ベン・グリオンの意図や検察側のすべての努力にもかかわらず、やはり被告席に座っている一人の人間、血の通う肉体をもつ人間が存在したのだ。」( 第一章 法廷)
「アルゼンチンやエルサレムで回想録を記しているときでも、警察の取調官に、あるいはまた法廷でしゃべっているときでも、彼の述べることはつねに同じであり、しかもつねに同じ言葉で表現した。彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する能力──つまり誰か他の人の立場に立って考える能力──の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。」(第2章被告)
「彼自身警察でも法廷でもくり返し言っているように、彼は自分の義務を行なった。命令に従っただけではなく、法律にも従ったのだ。アイヒマンはこれは重要な相違であるといろいろほのめかした(中略)〈上からの命令〉と〈国家行為〉という使い古された言葉がしきりに取り交わされた。」(第八章 法を遵守する市民の義務)
「ハウスナー氏は世界にこれまであらわれた最もアブノーマルな怪物を裁くと言いながら、同時にまた彼を裁くことによって〈彼に類した多くの人々〉、それのみか〈ナチ運動全体、ひいては反ユダヤ主義〉を裁くことを望んでいたのである。
アイヒマンが怪物であると考えれば、実際、事は非常に簡単になるということを知っていた。
アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。」(エピローグ)
そした、思考停止した凡人に過ぎないアイヒマンが死刑に処せられなければならない 理由についてアーレントは次のとおり結論する。
「君は自分の身の上を逆境の物語として語ったが、事情を知ったわれわれとしては、もっと順境にあったならば君もわれわれの前に、もしくは他の刑事法廷に引き出されるようなことはまずなかったろうと、ある点まで認めるに吝かではない。
議論を進めるために、君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。
その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。
というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。
そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。
これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」
この論法は 一人の法律家としては理解はできても共感はできない。
しかし、思考停止と言う悪が いかに陳腐で かつ深刻かについては完全に同意できるし共感もできる。
「私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目をそむけることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。 自分の昇進には恐ろしく熱心だったということの他には何らの動機もなかったのだ。」
「彼は愚かではなかった、全く思考していないことー これは決して愚かさとは同じではないー それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人となる素因だったのだ」
歴史上戦争や虐殺は、 おおにして「固い信念の持ち主による強い決意」によって なされてきた。 ロベスピエールなどによる恐怖政治はその典型ではないだろうか?
信念や決意といったものはそこに寄りかかってしまうと、思考停止する。
本当に正しいのか? 本当にこれでいいのか? 自分の考えや行動は間違っているのではないか? 思考停止に陥らないためには、 信念などに寄りかからず 決意などに逃げず、 こういった疑問を 常に投げかけ続けるほかないと思う。
しかし、あらゆる価値に疑問を持ち あらゆる判断に誤りの可能性を考慮し、 思考し続けると どうしても、 あらゆる価値に価値はないというニヒリズムに到達するように思う。
そんなジレンマを救ってくれるのは、 やはり美と芸術であろうか??
とここまで書いて、 結論が三島由紀夫の「新ファシズム論」と全く同じとなっていることに気づき、 自らの思考の独創性の無さに気づくのであった。
ー 悪の陳腐さについての報告ー
時に法律書以外の本を読みたくなる。
ということで、 2019年ゴールデンウィーク10連休の二日目は、ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告ー」を通読してみた。
アドルフアイヒマンは、ナチス政権下のドイツの親衛隊将校。「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。
戦後モサドによってイスラエルに連行され、 エルサレムでの裁判によって死刑判決を受け、 1962年6月1日刑死する。
イスラエルの政府や その意を受けた検察官は、 ユダヤ人の虐殺という世界史上の犯罪に関わったアドルフ・アイヒマンが、 いかに悪魔的で残虐で 非人間的な怪物であるかを強調し、人類の敵である悪魔を断罪することこそ 正義にかなうことである ことを明らかにしようとする。
しかし、ハンナ・アーレントによる「エルサレムのアイヒマン」では、 ユダヤ人の大量虐殺に関わったアイヒマンが、 あくまでも何でもなく、どこにでもいるような凡人であるかが克明に描写されていく。
このアーレントの指摘は意外でも何でもない。
現代社会においても 凶悪な犯罪が起こると、 そのものがいかに我々から「隔絶された」 非人間的な人物であって これを断罪することこそが正義にかなう と言う 声はよく聞かれる。
しかし時に被告人と数年に及ぶ裁判を行う過程で繰り返し繰り返しコミュニケーションをする弁護士としては、 凶悪犯と言われる被告人も、ただの人であると思うのである。
アーレントの次の指摘は 非常に具体的である。
「ハウスナー氏の雄弁が華々しくなるにつれ、ガラス箱の中に見える顔はますます蒼ざめ、ますます幽霊のように見えてきた。「これらすべてを行なった怪物がそこに座っている」と指差して叫ばれても、その顔に生気はよみがえらなかった。
ベン・グリオンの意図や検察側のすべての努力にもかかわらず、やはり被告席に座っている一人の人間、血の通う肉体をもつ人間が存在したのだ。」( 第一章 法廷)
「アルゼンチンやエルサレムで回想録を記しているときでも、警察の取調官に、あるいはまた法廷でしゃべっているときでも、彼の述べることはつねに同じであり、しかもつねに同じ言葉で表現した。彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する能力──つまり誰か他の人の立場に立って考える能力──の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。」(第2章被告)
「彼自身警察でも法廷でもくり返し言っているように、彼は自分の義務を行なった。命令に従っただけではなく、法律にも従ったのだ。アイヒマンはこれは重要な相違であるといろいろほのめかした(中略)〈上からの命令〉と〈国家行為〉という使い古された言葉がしきりに取り交わされた。」(第八章 法を遵守する市民の義務)
「ハウスナー氏は世界にこれまであらわれた最もアブノーマルな怪物を裁くと言いながら、同時にまた彼を裁くことによって〈彼に類した多くの人々〉、それのみか〈ナチ運動全体、ひいては反ユダヤ主義〉を裁くことを望んでいたのである。
アイヒマンが怪物であると考えれば、実際、事は非常に簡単になるということを知っていた。
アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。」(エピローグ)
そした、思考停止した凡人に過ぎないアイヒマンが死刑に処せられなければならない 理由についてアーレントは次のとおり結論する。
「君は自分の身の上を逆境の物語として語ったが、事情を知ったわれわれとしては、もっと順境にあったならば君もわれわれの前に、もしくは他の刑事法廷に引き出されるようなことはまずなかったろうと、ある点まで認めるに吝かではない。
議論を進めるために、君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。
その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。
というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。
そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。
これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」
この論法は 一人の法律家としては理解はできても共感はできない。
しかし、思考停止と言う悪が いかに陳腐で かつ深刻かについては完全に同意できるし共感もできる。
「私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目をそむけることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。 自分の昇進には恐ろしく熱心だったということの他には何らの動機もなかったのだ。」
「彼は愚かではなかった、全く思考していないことー これは決して愚かさとは同じではないー それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人となる素因だったのだ」
歴史上戦争や虐殺は、 おおにして「固い信念の持ち主による強い決意」によって なされてきた。 ロベスピエールなどによる恐怖政治はその典型ではないだろうか?
信念や決意といったものはそこに寄りかかってしまうと、思考停止する。
本当に正しいのか? 本当にこれでいいのか? 自分の考えや行動は間違っているのではないか? 思考停止に陥らないためには、 信念などに寄りかからず 決意などに逃げず、 こういった疑問を 常に投げかけ続けるほかないと思う。
しかし、あらゆる価値に疑問を持ち あらゆる判断に誤りの可能性を考慮し、 思考し続けると どうしても、 あらゆる価値に価値はないというニヒリズムに到達するように思う。
そんなジレンマを救ってくれるのは、 やはり美と芸術であろうか??
とここまで書いて、 結論が三島由紀夫の「新ファシズム論」と全く同じとなっていることに気づき、 自らの思考の独創性の無さに気づくのであった。