山岳事故における法的責任
山岳事故における法的責任
(目 次)
1 はじめに
2 責任と法的責任
⑴ 責任と法的責任の区別
⑵ 法的責任とは何か
⑶ 法的責任の3類型
⑷ 3つの法的責任の関係
3 山岳事故における法的責任=「過失」
⑴ 責任の発生原因について
⑵ 民事及び刑事上の過失責任が生ずる要件
⑶ 民事上の責任と刑事上の責任との差異
⑷ 「過失」と「安全配慮義務違反」
4 過失の意義及び自己責任諭や危険の引受
⑴ 自己責任論や危険引受の射程の温度差
⑵ 過失の意義
⑶ 注意義務の成立要件
⑷ 過失と危険引受及び自己責任論との関係
⑸ 各登山類型による危険引受の違い
5 裁判例検討
⑴ 学校引率登山
⑵ 大日岳訴訟
⑶ ガイドによる引率登山
⑷ 成年による自主登山
6 結語
1 はじめに
⑴ 本稿では,山岳事故における法的責任について私見を述べる。
山岳事故における登山に危険はつきものであり,それが本質であるとすれば,どれだけ安全を志向しても,登山における事故は不可避であり,山岳事故における裁判例も集積される。
⑵ 本稿では,まず,山岳事故における「法的責任」とは何かについて諭ずる。
その上で,登山において語られる「自己責任」や「危険の引受」が,山岳事故における法的責任を語る上で,どのように位置付けられるのかについて論ずる。
2 責任と法的責任
⑴ 責任と法的責任の区別
ア 責任という言葉は,政治的責任,道義的責任,倫理的責任と言ったように,非常に多義的に使われる。したがって,法的責任について論ずる場合,まず,法的責任が,他の政治的責任,道義的責任などと,どのように区別されるか明らかにする必要がある。
イ 山を愛する者は,登山における倫理観,道徳観を持っており,登山は,その倫理的規範,道義的規範の中で行われることが多い。
そこでは,例えば,「危険な冬山に行く以上,その危険は自ら引き受けるべきであり,事故が生じてもそれは自己責任である。」という文脈が用いられる。
それは,山を愛する者の倫理的規範,道義的規範としては説得力を有する。しかし,「したがって,そのような場合,法的責任は認められるべきではない。」と言うのは必ずしも正しくない。
それは,倫理的規範,道義的規範が,同じ倫理観,道徳観を持つ者の間でのみ通用する規範であるのに対し,法規範は,社会を構成する人々の倫理観,道徳観が全く異なることを前提に,倫理観,道徳観が全く異なる人々の利害対立を解決するための規範であるからである。
つまり,現代社会は,価値観の多様性を認めているために,異なる価値観を持つ人間の利害対立を解決する手段として,人々がどのような倫理観,道徳観を持っているかにかかわらず通用する規範である,法規範が必要とされるのである。
ここに,法規範と他の規範の区別の本質がある。
ウ これを,「山岳事故の法的責任」と言う観点からみると,山岳事故訴訟においては,山を愛する者同士の倫理的規範,道徳的規範によって裁かれるのではなく,一般社会の法規範によって裁かれることを意味する。
⑵ 法的責任とは何か
法的責任と他の様々な責任は,国家権力による強制力を伴うか否かという点で,他の責任と異なる。
すなわち,政治的責任,道義的責任,倫理的責任などは,最終的に責任を取るか否かの判断が個人及び個人の属する集団の自由な判断に委ねられる。たとえば,大臣の同じ種類の不祥事であっても,政治的責任を感じて辞任する大臣もいれば辞任しない大臣もいる。
一方で,法的責任という場合,それには必ず国家権力による強制力を伴う。たとえば,「いくらいくら払え」という判決が下された場合,それに従わなければ給料や財産を強制的に差し押さえられる。また,「懲役1年に処する」という判決が下された場合,それに従わなくても強制的に刑務所に収監される。
⑶ 法的責任の3類型
政治的責任,道義的責任,倫理的責任という場合,どのように責任を取るかについての判断は個人及び個人の属する集団の自由な判断に委ねられる。
たとえば,問題が生じたとき,辞めることが責任を取ることだと考える人もいれば,辞めずに職責を全うすることが責任を取ることだと考える人もいる。
しかし,法的責任は, 3種類しかない。民事責任,刑事責任,行政責任である。
民事責任とは,私人対私人の間で生じる責任であり,「被告は,原告に対し, 1000万円支払え。」というような主に金銭賠償責任である。
刑事責任とは,私人と国家の間で生じる責任であり,「被告人を懲役1年に処する。」とか「被告人を罰金50万円に処する。」というように刑罰を受ける責任である。
行政責任とは,私人と行政の間で生じる責任であり,自動車運転免許の取消や,海難事故を起こした場合の船舶免許取消など,行政から特別に許可された行為の取消などがこれに当たる。
⑷ 3つの法的責任の関係
民事責任,刑事責任,行政責任は,多くの場合重なる。
たとえば,交通死亡事故の場合,民事責任として被害者への損害賠償義務を負い,刑事責任として自動車運転過失致死罪で懲役刑又は罰金刑を受け,行政処分として免許取消や停止を課される。
山岳事故の場合も,民事責任として被害者への損害賠償義務,刑事責任としての業務上(または単純)過失致死傷罪の罪責を負い,今後,ガイド資格等が国家資格化された場合には,民事刑事責任以外に,資格取消又は停止等の行政処分を課されるような場合もあり得よう。
3 山岳事故における法的責任=「過失」
⑴責任の発生原因について
行政上の責任は,とりあえず脇に置き,ここでは民事責任及び刑事責任の発生原因について考える。山岳事故において故意に人を死傷させるという事例は想定し難いし,そのような場合はそもそも「事故」ではない。したがつて,山岳事故において生ずる責任は,うっかりで人を死傷させた場合の責任,すなわち過失責任である。
⑵民事及び刑事上の過失責任が生ずる要件
民事責任(損害賠償義務)及び刑事責任(懲役や罰金)が,生ずる要件は,ごく単純化すると,①過失,②結果,③過失と結果との因果関係である。
民事責任の事例である大日岳訴訟判決を例にとれば
「①講師らは,大日岳山頂付近の雪庇の規模を10m程度と推測した上で当該雪庇を避けるため,見かけの稜線上から十数m程度の距離をとって,登高ルート及び休憩場所の選定を行った。 しかし,講師らは,本件事故当時,大日岳山頂付近の雪庇の規模が25m程度であることを予見することは可能であったから,見かけの稜線上から少なくとも25m程度の距離をとって,登高ルート及び休憩場所の選定をすべきであり,講師らの登高ルート及び休憩場所の選定判断には過失があるというべきである。」
「③そして,見かけの稜線上から25m程度の距離をとって登高ルート及び休憩場所の選定を行えば,本件事故は回避できたので,過失と本件事故発生(②)との間に相当因果関係が認められる。」(*括弧及び①②③は著者による。)
という判断の①の部分が過失であり,②が結果,③の部分が過失と結果との因果関係である。
(★この裁判所の判断には異論があり得るところであるし,判決は控訴審で和解となっているためより上級審での判断はない。あくまで第一審の判示を,①過失,②結果,③因果関係の例示として示すものである)
⑶ 民事上の責任と刑事上の責任との差異
ア 刑事責任の場合,①過失があり,②人の死傷という結果があり,③過失と被害との間に因果関係が認められれば,業務上(又は単純)過失致死傷罪(刑法209条S211条)が成立し,懲役刑,禁固刑,罰金刑等の刑が科される。
イ 一方,民事責任の場合,①過失があり,②人の死傷という被害があり,③過失と被害との間に因果関係が認められれば,人の死傷という被害を金銭に換算し,損害賠償義務を負う。
その他差異は多々あるが,本稿の目的ではないので触れない。
⑷ 「過失」と「安全配慮義務違反」
ガイド登山などでは,「ガイドは客の安全を配慮する義務がある」などと言われ,安全配慮義務が問題となることもある。
過失責任(不法行為責任)との違いは,過失責任の場合,交通事故のように被害者と加害者に何の関係もないのが普通である一方,安全配慮義務違反の場合,労働契約における雇主と労働者のように,特別な社会的接触関係がある点にある。
「ガイドは客の安全を配慮する義務がある」と言えるのは,ガイドと客が契約を締結しているからであり,全く知らない登山者同士ですれ違い様にザックをぶつけ,ぶつけられた側が滑落死した場合は,交通事故同様,過失責任(不法行為責任)のみが成立する余地がある。
4 過失の意義及び自己責任諭や危険の引受
⑴自己責任論や危険引受の射程の温度差
山岳事故における法的責任を輪ずる際に,避けて通れないのが,「自己責任論」や「危険の引受」である。しかし,「自己責任論」や「危険の引受」は,誠実な山屋であればあるほど,強い倫理的道義的拘束力を感ずるものである。その結果,法的責任を論ずる際にも,「自己責任論」や「危険の引受」の射程を過大に見積もる傾向があるように思う。
一方で,対立当事者は,それらを過少に見積もる傾向があるのではなかろうか。
そのため,山岳事故における法的責任を論ずるに際しては,「過失」の解釈に,「自己責任論」や「危険の引受」がどのように影響ずるのか正確に理解し,その射程を画する必要があろう。
⑵過失の意義
ア 過失の意義
過失とは,不注意な行為であり,不注意とは,社会生活上必要な注意をしないことである。注意をしないことが法的責任の対象となるのは,人は社会生活を営む上で,他人を死傷させないように注意をすべきであると言う法規範に基づく。
イ このように,法的意味における過失は,注意すべきだったのに,注意しなかったことという「注意義務の違反」と定義される。ひとつ具体例を挙げる(屋久島事件~鹿児島地裁平成18年2月8日判決)。
「被告人は,かねて・・・などの山岳ガイド業に従事していたものであるが,
.
『屋久島・沢登り』ツアーを実胞し, A,B,C,Dらを引率し,. . 沢登りのガイドを行った際,同月4日午前6時30分ころ,. . F滝上流約2.5キロメートル地点の河川流域において,折からの降雨により河川が増水し,短時間のうちにいわゆる鉄砲水等の急激な水位の上昇が発生すると予想されたのであるから,このような場合,山岳ガイドとしては,前記河川の渡渉を行うことなく,前記河川右岸の水面から約7.1メートル上方にあるテント設営地に待機し,前記Aら4名の生命及び身体の安全を確保すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,鉄砲水等が発生する前に前記河川の渡渉を完了できるものと軽信し, Aら4名をして,ザイル等を使用して前記河川右岸から同左岸へ渡渉を開始させた過失により(4名を死傷させた)」(*括弧,傍線については筆者による)。
この場合,ガイドとしては渡渉せずに待機すべきであったというのが注意義務であり,これを怠って渡渉させたと言うのが注意義務違反である。
(★判決文を確認したところ,事実認定は争われておらず,量刑のみが問題となった事件である。したがって,無罪主張がなされた上でそれを排斥した裁判例ではない。あくまで「注意義務」の示された方の例示である。)
⑶注意義務の成立要件
法的な過失が注意義務違反であるとすると,注意義務とは何かが次に問題となる。
法は人に不可能を強いるものであってはならないので,予測不可能な出来事,回避不可能な出来事について注意義務を課すことはできない。
したがって,注意義務を課す前提として,結果予見可能性,結果回避可能性が必要とされる。
先の屋久島事件で言えば,渡渉行為の際に,「鉄砲水等の急激な水位の上昇が発生すると予想され」るのであれば客の死傷は予見可能であるから,結果予見可能性は認められ,かつ待機という幕営地で待機という選択肢を取れば客の死傷という結果は回避できるから,結果回避可能性が認められる。
そして,客の死傷を予見でき,客の死傷を回避できるのであれば,ガイドにはその結果を回避すべき注意義務が課される(と起訴した検察官は判断したのであろう)。
結果予見可能性+結果回避可能性 → 結果を回避すべき注意義務
⑷過失と危険引受及び自己責任論との関係
ア 登山は,滑落,落石,落雷,道迷い,雪崩,雪庇の崩壊等の危険に満ちた行為である。
しかも,死傷事故が起こった場合「もしもあのとき・・・・していれば」の議論は無限に出てきうる。このような場合,結果予見可能性,結果回避可能性があるからと言って,結果を回避すべき注意義務が認められてしまったのでは,登山などできなくなる。
むしろ,登山者は登山という,本質的に危険な行為を自ら選択しているのであるから,その危険は自ら予測すべきだし,自ら結果を固避する措置を採るべきとも言える。
これを,法的に言えば,登山における「危険の引受」を「自己決定している」ことになり,その自己決定に基づく結果については「自己責任」を負うべきであると考えられる。
イ 「危険の引受=自己決定」→「自己責任」という構図は,大雑把に言ってしまえば,登山の事故について,結果予見可能性,結果回避可能性があったとしても,結果を回避する注意義務を負わないという意味で用いるべきであると考える。
これを図式化すると次のように言えよう。
結果予見可能性+結果回避可能性
↓×(危険引受→自己責任)
結果を回避すべき注意義務
⑸各登山類型による危険引受の違い
ア 商業引率登山,学校引率登山,成人による自主登山等,各登山類型における危険引受の違いを考える場合,まず,両極端の事例を想定し,次に直面した事例がそのどちらよりに属するかを考える。ほとんどの事例は,両極端の事例の中間的な事例に属するので,どちらにより近いかを考えることによって理解が可能となるからである。
ここで,両極端の事例として,自己決定の程度がほとんどない登山として中学校の学校引率登山,自己決定の度合いが極めて高い登山として登山パートナーとの登攀登山を想定する。
イ 学校引率登山
中学校の野外学習など正課の授業として登山を行う場合,それは義務教育の一内容を有しているので,生徒はまず登山をするかしないかについて意思決定の自由が無い。登山の最中も,教育職員の設定したルートで登らなければならず決まったところで野営しなければならず意思決定の自由が無い。
また,そもそも「自己決定の自由」は,自己決定をするだけの判断力があることが前提となっており,一般に未成年者は低年齢になるほど,その判断力がないと扱われる。酒,煙草,選挙権,刑事処分等で成年と異なった扱いがされるのはそのためである。
したがって,この場合,自己決定による危険の引受は存在せず,したがって自己責任も妥当しないため,引率教師等は,予見可能性,結果回避可能性があれば,結果を回避すべき注意義務を負うと考えるべきである。
ウ 成年による自主登山
信頼し合ったザイルパートナー同士が,困難な登攀に挑む場合,やるもやらないも自由な判断であり,自己決定の度合いは極めて高い。しかも,高度な危険が前もって想定されながらあえて登山に挑むのである。
したがってこの場合,自己決定に基づき,高い危険をあえて引受けているのであるから,自己責任が強く妥当する。したがって,予見可能性,結果回避可能性があったとしても,結果を回避すべき注意義務は,基本的にないと考えるべきである。
エ ガイドによる引率登山,その他の成年による自主登山の場合,自己決定の前提の有無及びその程度,自己決定の程度について千差万別であるが,上記事例のどちらにより近いか検討すれば理解しやすい。
例えば,一概にガイド登山といっても,経験者であるゲストがよりリスクを求める山行(クライミングや山スキーなど)は,その分ゲスト側の「危険の引受」という「自己決定」がより強く妥当する場面が多いといえよう。
例えば,一概にガイド登山といっても,経験者であるゲストがよりリスクを求める山行(クライミングや山スキーなど)は,その分ゲスト側の「危険の引受」という「自己決定」がより強く妥当する場面が多いといえよう。
5 裁判例検討
⑴学校引率登山
ア 石鎚山転落事件(* 1)
本件は,公立中学校の特別教育活動として行われた登山において帽子を風に飛ばされた生徒がこれを取るために崖に下りて転落し重傷を負った事故について引率した教諭に過失があるとされた事例である。
ここでは,この登山が「正規の教育活動に含まれ,これを計画,実施するにあたっては00中学校の教諭であり引率者であった○○教諭,○○教諭らは職務上当然に生徒の安全について万全を期すべきであり,危険な状態,箇所を十分に把握し,生徒にもこれを理解させ,これに近づけないようにすべき注意義務があった。」と判示されている。
本件は,登山そのものが,義務教育の正規の授業であり,生徒らに自由な判断が許されていないこと,生徒らに自由な自己決定をなす前提となる判断力が欠けることなどが考慮されていると考えられる。
結果,崖に下りれば落ちることは予見可能であり,崖に下りることを制止すれば結果回避は可能であるとして,生徒を制止すべき注意義務及びその違反が肯定されている。
イ 波照間島水難死事件(*2)
本件は,市立工業高校3年生の生徒が修学旅行中に海難事故で死亡したことにつき,引率教員に,遊泳を行うに当たっての危険個所の事前調査義務及び注意喚起義務に違反した過失があるとされた事例である。
本件で見るべき点は,教員らが生徒に対し「○○先生のところへ行くこと」「先生のいるところで海に入ること」「引率教員がいないところでの生徒同士だけの海水浴はしないこと」との指示に反して,本件事故現場の海に対応する浜辺が,指示された目的地及び活動場所ではないことを十分認識しながら,本件事故現場で海に入ったものであり,その上教諭の「深いところや,沖には行かないこと」との指示に反して,海中を,水面が胸より上に来るような地点まで沖に向かって進み,そこで本件事故に遭ったという事情がありながら,引率教員に過失が認められた点であろう。
修学旅行があくまで教育活動の一環として行われるものであることからすると,危険な場所の探索まで全て生徒の自主的な行動に任せるというのは妥当ではないと言う点が考慮されている。
もっとも,この裁判例では,生徒達が教員の指示に反したことについて,生徒達も自分の判断で軽率な行為をしているとして, 4割の過失相殺がなされ,損害賠償額が4割減額されている。この判断は,結果予見可能性,結果回避可能性を認め,結果を回避すべき注意義務を認めつつも,不十分ながら自己決定による危険の引受があると考えれば,他の山岳事故における裁判例等と整合的に理解し得ると思う。
⑵大日岳訴訟(*3)
ア 本件は,北アルプス大日岳において,文部科学省登山研修所の冬山研修中に,受講生の学生が雪庇を踏みぬき遭難死した事案について,講師らの過失が認められた事件である。
イ この判断の中で,「本件研修会がリーダー養成目的のために行われる実践的な研修会である点はいっても,(亡・・・ら)本件研修会の参加者は,雪崩や雪庇崩落等の危険性の判断については,最終的には講師らにその判断を委ねていたものであり,本件研修会が冬山登山に関する十分な知識及び経験を有する講師らによって安全に実胞されることを期待していたものということができる。したがって,講師らは,本件研修会を行うにあたっては,各研修生の登山歴及びスキー技術のレベルなど様々であって中には冬山登山の技術及び知識が未熟な者がいることを十分に認識した上で,研修生の生命身体に対する安全を確保すべき注意義務を負っていたというべきである。」(*括弧及び傍線は筆者)として,講師らに注意義務があることを認めた。
これを,「自己責任輪」や「危険の引受」から説明するならば,受講生らは,講師らの指揮命令に従う代わりに,登高ルートや休憩場所の還定における危険性判断は,講師らに委ねており,講師らも受講生らに指揮命令する立場にある代わりに最終的な危険性判断を行うことを了承していた点にあろうか。
そうだとすれば,受講生らには,後述する成年による自主登山のような「危険の引受」や「自己責任論」は,強くは妥当しないことになろう。
ウ なお,この事件の争点は,「危険引受」ではなく,結果予見可能性の有無である。本件は,雪庇踏みぬき事故であり,講師らは雪庇が10メートル程度であると考え登高ルート及び休憩場所を選定したところ,実際には25メートル程度あったため,雪庇踏みぬき事故が起こったという事案である。講師らが受講生らに注意義務を負うとしても,そもそも結果予見可能性がなければ,過失責任は成立しない。裁判書においても,その紙幅の大半は,雪庇が25メートルもあったという点につき,講師が予見可能であったか否かについての検討に費やしている。
その中では,雪庇全体を回避すべき注意義務の存否,雪庇の規模についての予見可能性などについて,雪庇の構造にも及ぶ詳細な議論が展開されている。この点は,非常に興味深い所であるが,本稿の目的ではないので割愛する。今後,また諭ずる機会があれば検討してみたいと思う。
⑶ガイドによる引率登山
ア 責任肯定(白馬岳遭難死事件* 4)
本件は, 10月の北アルプスでガイドに伴われた主婦が強風や吹雪に遭い,低体温症で死亡した事件である。素人の客とプロのガイドという組み合わせの場合,山行における決定権は全てガイドが行うのが通常であろう。
したがって,客の自己決定権の範囲は限られてものになる。また,ガイド業によって利益を得る以上,客の自己決定権の前提となる情報をガイドは客に十分に与える必要がある。
その意味で,裁判所が,登山の危険性は客も認識していたというガイド側の主張を「天侯に関する情報はガイドが収集するべきで,ツアー客が自ら収集すべきものではない」として退けたことは,法律論としては首肯できる。
もちろん,これを登山者の倫理・道徳という観点から見た場合は, 10月の北アルプスの天侯急変の危険性は十分認識し,準備した上で山に入るべきだったというべきであろう。
イ 責任否定
(志賀高原スキー事故* 5)
本件は,スキースクールのリーダー兼指導者が主催したスキーツアーにおいて,志賀高原の滑走禁止区域を滑走していたところ,参加者の一人が雪崩に巻き込まれて死亡したという事案で,当該リーダーの過失責任が否定された事案である。裁判所は,スキーツアー等を主宰し他のスキーヤーを指導しようとする者が「当該ツアーの参加者を自己のツアー実施計画下ないし自己の指導下におくことでその行動に一定の制約を課することに9には,当該参加者が自ら対処し得る危険の範囲を超えた危険に直面することのないよう・・・・コース選択,指導を行うべき義務を負い」(*傍線及び・・・・は筆者による)と判示した上,本件ツアーにおけるリ}ダーはツアーにおける幹事的立場にあった参加者の一員としての性格を超えるものではないと判断した。
本件は,スキースクールのリーダー兼指導者が企画したものであっても,当該リーダーは,参加者の行動に制約を課す(自己決定を制限する)ようなことはなく,その実態は,成年による自主登山と同一であると考えられる事案である。
⑷成年による自主登山
ア 責任否定(弘前大学事件*6)
本件は,大学山岳部の冬山における滑落事故で,リーダーの過失を否定した事例であり,登山における自己責任を明確に述べている。「大学生の課外活動としての登山において,これに参加する者は,原則として,自らの責任において,ルートの危険性等を調査して計画を策定し,必要な装備の決定及び事前訓練の実施等をし,かつ,山行中にも危険を回避する措置を講じるべきものと言わなければならない。」「そうすると,
...
原則として,
...
危険回避措置について,メンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものではなく,例外的に,メンバーが初心者等であって,その自律的判断を期待することができないような者である場合に限って,・・・メンバーの安全を確保すべき法律上の義務を負う」として,本件において死亡した者は,到底その自律的判断を期待することができない者であったと認めることはできないとした。
上記「自律的判断を期待することができないような者」とは,要するに,当該山行について,自己決定をするだけの能力がない者ということができる。そのような場合に該当しない以上,成年の自主登山においては,基本的に危険泣の引受けるという自己決定による自己責任が妥当すると考えられる。
この場合,結果予見可能性や結果回避可能性があったとしても,リーダーに過失責任はない。
イ 責任肯定(東京青稜会事件* 7)
本件は,ロッククライミング練習中の初心者が転落事故を起こし頚髄損傷の傷害を負った事案について,指導的なパートナーに過失が認められた事案である。やや前傾した壁で,指導的なパートナーが「ロープで確保しているから手を離してごらん」と言ったため,初心者が手を放したところ,確保がなされておらず,転落して地面に激突したという事例である。
指導的パートナーについて,「本件露岩で両手を離す練習をする場合には原告が転落しザイルに一気に加重がかかることまで予見すべきであり」と判示し,結果予見可能性,結果回避可能性を認め,過失責任を肯定した。
その一方で,「原告は,岩登りは初心者であったとはいえ,岩登りは,パーティーを組む者同志の相互協力を要する生命身体に危険のあるスポーツであるから,自己の身体の安全確保については,自らも十分に注意すべきであり,原告としてもどのような確保体勢をとり手を離せばよいか被告に説明を求めるべきであったのにこれを怠り,漫然被告の言うがまま手を離した点について落ち度があるといわざるをえない。」として,原告の過失割合を3割とした上,賠償額を3割減額した。
「岩登りは,パーティーを組む者同志の相互協力を要する生命身体に危険のあるスポーツである」という判断は,自己決定によって危険を引受ける以上,危険によって生じた事故についても自己責任であるとの判断に基づく。しかし,本件のように初心者が指導的パートナーから,「ロープで確保しているから手を離してごらん」という指示があれば,ロープで確保されているのだから,手を離しても落ちないと考えるのもやむを得ない。そのため,「手を離すことによって生ずる危険」については,自己決定による危険の引受は,不十分であったと考えられる。
6 結語
以上,山岳事故における法的責任について,基本概念について概観した上,裁判例等を検討した。
事故はあってはならないことであるが,それでも事故は不可避である。そして,事故が起き,それが訴訟という「事件」になることも珍しいことではない。我々は山だけに生きるわけにはいかず,この現実を切り離すことはできない。しかし,訴訟で責任を閲われることをおそれ,萎縮的効果によって,様々な研修等が形骸化してしまえば,技術の伝承や技術の発展は見込めない。時には,山屋の価値観を社会に声高に主張すべきときもあろう。登山の制限などを巡っては,登山と関わりのない人々との対立を余儀なくされる場合もあるかもしれない。
法的責任と言うと,とかく人の自由を縛るものと捉えられがちである。
しかし,「個人の尊重」「自己決定権」そして「(登山の自由を含めた)自由な価値観」が前提となる社会においては,法的責任は,それを間われる場合以外は,自由であるという自由保障機能も有する。
山岳事故における法的責任を理解し,その射程を把握することは,憲法上の権利である幸福追求権の一内容として尊重されるべき、登山の自由を確保することにもつながっていくのではなかろうか。
以上
(*1)松山地裁平成元年6月27日判決
(*2)横浜地裁平成23年5月13日判決
(*3)富山地裁平成18年4月26日判決
(*4)熊本地裁平成24年7月23日判決
(*5)長野地裁平成13年2月1日判決
(*6)名古屋高裁平成15年3月12日判決
(*7)横浜地裁平成3年1月21日判決