誰も寝てはならぬと歌う ―プッチーニと“翻案の境界線”
誰も寝てはならぬと歌う
――プッチーニと「翻案」の境界線
https://youtu.be/glnaKWicBLI?si=y6ci2rmMViSip75E
妻がクラリネットで「誰も寝てはならぬ」を歌いあげ、私はピアノでオーケストラを担当した。
この曲には、音楽そのものが持つ圧力がある。
夜明けへ向かって、勝利の予感が一段ずつ積み上がっていく。逃げ場がない。最後には、もはや歌い手だけでなく、聴いている側まで「勝つしかない」という気分に追い込まれる。
もっとも、わが家の本番では、その「勝つしかない」場面で、私が見事にやらかした。
プッチーニの世界では高らかに Vincerò と歌うはずが、伴奏者である私は内心、Perderò とでも言うほかなかった。勝利宣言の場面で敗北を刻む。まことに私らしい、痛恨のミスである。
しかし、弁護士という仕事をしていると、こういう失敗すら、妙な方向へ思考を連れていく。ただ感動して終わることができない。困った職業病である。
そもそも、この圧倒的な音楽は、本当に「ゼロから生まれた完全なオリジナル」なのだろうか。
そう考え始めると、《トゥーランドット》という作品は、単なる名作オペラではなく、著作権法の教材として、実に魅力的な顔を見せ始める。
著作権法は、アイデアそのものを保護しない。保護するのは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」である。言い換えれば、「冷酷な姫君がいる」「求婚者に謎を出す」「夜明けまでに名前を当てる」「勝てば結婚、負ければ死」という物語の骨格だけでは、まだ法が独占を認める表現とは限らない。そこに、どのような台詞を置き、どのような人物を配し、どのような音楽で時間を膨らませ、どのような劇的緊張として立ち上げたか。法が見に行くのは、そこから先である。
この点で避けて通れないのが、いわゆる江差追分事件である。
最高裁は、翻案について、既存の著作物に依拠し、その「表現上の本質的な特徴」の同一性を維持しながら、具体的表現に修正・増減・変更などを加え、接する者が既存著作物の表現上の本質的特徴を直接感得できる別の著作物を創作する行為だと整理した。逆にいえば、共通しているのが、思想、感情、アイデア、事実、事件、あるいは創作性のない部分にとどまるなら、翻案とはいえない。
この「本質的特徴の直接感得性」という言葉は、いかにも法律家好みの硬い表現である。
だが、要するにこういうことだと思う。
「似ている」だけでは足りない。
「参考にした」だけでも足りない。
「依拠した」ことがあっても、それだけで負けではない。
後発作品に触れた人が、先行作品の創作的表現の顔つきを、直接「ああ、これはあれだ」と感じ取れるかどうか。骨格だけを借りたのか。表情まで連れてきたのか。そこが問題になる。
《トゥーランドット》は、まさにこの問いを立てるための格好の題材である。
プッチーニの《トゥーランドット》は、ジュゼッペ・アダーミとレナート・シモーニによるイタリア語台本を伴うオペラであり、その台本はカルロ・ゴッツィの戯曲を基礎にしている。さらにゴッツィの戯曲自体も、ペルシャ系説話集に由来する物語に触発されたものと説明されている。
つまり、プッチーニは、まっさらな紙の上に、何の前触れもなくトゥーランドット姫を出現させたわけではない。彼の前には、すでに物語があった。姫がいた。謎があった。死の危険があった。異国趣味があった。
しかし、ここで「借りたのだから創作性がない」と言ってしまうと、著作権法の見方としては雑すぎる。
問題は、何を借りたかである。
そして、借りたものをどう変えたかである。
古い物語の筋、人物類型、舞台設定、謎かけという構造は、しばしばアイデアや素材の領域に近い。もちろん、具体的な台詞、場面構成、人物描写、独自の展開まで持ってくれば話は別である。しかし、抽象化された物語の型そのものを、誰か一人に独占させることは、創作の世界をあまりに狭くする。
だから法は、「借用」を直ちに悪としない。
法が問題にするのは、借用されたものの中に、保護されるべき具体的表現が含まれているか。そして、その表現上の本質的特徴が、後発作品の中から直接感得できるかである。
音楽になると、この問いはいっそう鋭くなる。
なぜなら、旋律は、単なるアイデアではなく、しばしば表現そのものだからである。小説でいえば「冷たい姫が難題を出す」という筋書きはアイデアに近い。しかし、ある特定の旋律、リズム、和声、オーケストレーションは、かなり具体的な表現である。したがって、保護期間中の他人の旋律を、その本質的特徴が直接感得できる形で使えば、複製、編曲、翻案の問題になり得る。
もっとも、伝承曲や、保護期間を経過した作品、公有に帰した素材であれば話は変わる。素材として用いること自体は自由になり得る。ただし、その素材をどのように和声づけ、どのように配列し、どの楽器に担わせ、どの劇的瞬間に置くか。そこに新たな創作的表現が生まれる。
プッチーニは、《トゥーランドット》で中国由来の旋律素材を取り込んだ。メトロポリタン歌劇場の解説によれば、彼は中国に駐在経験のある外交官エドアルド・ファッシーニ=カモッシの持っていたオルゴールから複数の旋律を知り、そのうち「茉莉花」、すなわち Mo Li Hua / “Jasmine Flower” は、トゥーランドット姫を表す主要主題として用いられたという。
ここで面白いのは、プッチーニの創作性が、「借りなかった部分」にだけあるわけではないという点である。
むしろ、借りたものの扱い方にこそ、彼の創作性が露出している。
旋律素材を異国趣味の飾りとして貼り付けるだけなら、それは単なる引用の標本箱に近い。しかしプッチーニは、それを劇の時間の中に置いた。姫の冷たさ、権力、伝説性、群衆の不気味さ、夜明けの緊張と結びつけた。旋律は、ただの「中国風の音」ではなく、劇的機能を持つ主題になった。
ここに、翻案と創作の境界線がある。
借りること自体が創作の敗北なのではない。借りたものを、自分の表現に変えられないことが敗北なのである。
この構造は、以前、息子とブラームスのハンガリー舞曲を連弾したときに考えたこととも重なる。民俗的旋律や公有の素材は、誰か一人の独占物ではない。
しかし、ある作曲家がそこに独自の和声を与え、構成を与え、リズムの処理を工夫し、劇的な配置を与えたなら、そこにはその人の表現が生まれる。
素材は共有され得る。
しかし、素材に与えられた具体的表現まで、当然に共有されるわけではない。
さらに《トゥーランドット》には、もう一段、法律家の興味を引く事情がある。
周知のとおり、プッチーニはこの作品を完成させる前に亡くなった。未完となった《トゥーランドット》は、その後、フランコ・アルファーノによって補筆完成された。初演では、アルトゥーロ・トスカニーニが、プッチーニの筆が止まった箇所で演奏を止めた、という逸話もよく知られている。
完成品だけを聴けば、一つのオペラである。
しかし、その内部には、時間差をもって複数の創作行為が重なっている。
ここでまた、法律家は面倒なことを考え始める。
どこまでがプッチーニの表現か。
どこからがアルファーノの表現か。
未完稿を完成させる行為は、単なる事務的補充なのか、それとも新たな創作なのか。
スケッチを楽譜に展開することは、どこまでが忠実な復元で、どこからが創作的な補筆なのか。
日本法の言葉で無理に引き寄せれば、共同著作物、二次的著作物、編集著作物、改訂版、補訂版といった論点が頭に浮かぶ。ただし、プッチーニの死後にアルファーノが補筆したという事情を考えると、軽々に「共同著作物」と呼ぶのは危ない。共同創作というより、未完稿やスケッチという先行表現を、後の作曲家がどの程度創作的に完成させたのか、という問題として見るほうが、法律家の勘には合う。
そして、二次的著作物の問題が生じる場合、話はさらに重層的になる。著作権法27条は、翻訳、編曲、変形、脚色、映画化その他の翻案をする権利を定める。28条は、二次的著作物の利用について、原著作者にも一定の権利を認める。つまり、後の創作者が新たな表現を加えたからといって、原著作者の権利が当然に消えるわけではない。
もちろん、《トゥーランドット》について実際にどの国の法が、どの時点で、どのような権利関係を認めたかは、当時の契約、出版社、保護期間、準拠法によって左右される。ここでしているのは、日本法の発想による思考実験である。
それでも、この作品が法律的に面白いことは変わらない。
《トゥーランドット》は、古い物語を借りた。
中国由来の旋律素材を取り込んだ。
しかも、作曲者本人は未完のまま倒れた。
それでもなお、この作品は、疑いなく「プッチーニの作品」として聴かれている。
なぜか。
借りたからではない。
借りたものを、自分の表現へと変えたからである。
「誰も寝てはならぬ」は、勝利の歌である。
夜明けまでに姫が王子の名を当てられなければ、王子は勝つ。だから音楽は、疑いなく上昇していく。最後の Vincerò は、もはや予告ではなく、ほとんど判決主文のように響く。
だが、法の世界では、そう簡単に勝利宣言はできない。
どこまでが自由な素材か。
どこからが保護される表現か。
どこまでが参照か。
どこからが翻案か。
どこまでが補筆か。
どこからが別個の創作か。
その境界は、しばしば後から争われる。しかも、争われた瞬間には、芸術の美しい響きは、証拠、依拠性、類似性、創作性、直接感得性という、いささか寝つきの悪い言葉に分解される。
妻がクラリネットであの旋律を歌いあげ、私がピアノで追いかけながら、そして肝心なところで転びながら、改めて思った。
名作とは、完全な無から生まれるものではない。むしろ、すでにこの世界に存在している物語、旋律、伝統、先行作品の蓄積を受け止め、そのうえでなお「自分の表現」を打ち立てるところに生まれる。
そして、その「どこからどこまでが自分の表現なのか」を、もっとも執拗に問うのが法である。
素材は共有できる。
公有に帰した表現も、もちろん共有できる。
しかし、誰かが素材に与えた具体的な選択、配列、和声、構成、劇的配置、言葉遣いまで、当然に自由になるわけではない。
そこに、表現上の本質的特徴が残っているのか。
後の作品から、それを直接感得できるのか。
江差追分事件が示した問いは、北海道の民謡をめぐるテレビ番組の中だけに閉じていない。プッチーニを聴くときにも、ブラームスを弾くときにも、そして家庭内のクラリネットとピアノの演奏にすら、ひそかに響いている。
その夜、演奏者としての私は、少なくとも Vincerò ではなかった。むしろ、かなり明確に Perderò であった。
しかし、法律家としてこの作品を眺めるかぎり、最後に残る言葉はやはり同じである。
創作は、無から生まれる奇跡ではない。
借り、受け継ぎ、変え、配置し直し、それでもなお他人の本質的特徴ではなく、自分の本質的特徴を立ち上げる営みである。
だから創作は面白く法は厄介だ。