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誰も寝てはならぬと歌う ―プッチーニと“翻案の境界線”

 誰も寝てはならぬと歌う ――プッチーニと「翻案」の境界線 https://youtu.be/glnaKWicBLI?si=y6ci2rmMViSip75E 妻がクラリネットで「誰も寝てはならぬ」を歌いあげ、私はピアノでオーケストラを担当した。 この曲には、音楽そのものが持つ圧力がある。 夜明けへ向かって、勝利の予感が一段ずつ積み上がっていく。逃げ場がない。最後には、もはや歌い手だけでなく、聴いている側まで「勝つしかない」という気分に追い込まれる。 もっとも、わが家の本番では、その「勝つしかない」場面で、私が見事にやらかした。 プッチーニの世界では高らかに Vincerò と歌うはずが、伴奏者である私は内心、Perderò とでも言うほかなかった。勝利宣言の場面で敗北を刻む。まことに私らしい、痛恨のミスである。 しかし、弁護士という仕事をしていると、こういう失敗すら、妙な方向へ思考を連れていく。ただ感動して終わることができない。困った職業病である。 そもそも、この圧倒的な音楽は、本当に「ゼロから生まれた完全なオリジナル」なのだろうか。 そう考え始めると、《トゥーランドット》という作品は、単なる名作オペラではなく、著作権法の教材として、実に魅力的な顔を見せ始める。 著作権法は、アイデアそのものを保護しない。保護するのは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」である。言い換えれば、「冷酷な姫君がいる」「求婚者に謎を出す」「夜明けまでに名前を当てる」「勝てば結婚、負ければ死」という物語の骨格だけでは、まだ法が独占を認める表現とは限らない。そこに、どのような台詞を置き、どのような人物を配し、どのような音楽で時間を膨らませ、どのような劇的緊張として立ち上げたか。法が見に行くのは、そこから先である。 この点で避けて通れないのが、いわゆる江差追分事件である。 最高裁は、翻案について、既存の著作物に依拠し、その「表現上の本質的な特徴」の同一性を維持しながら、具体的表現に修正・増減・変更などを加え、接する者が既存著作物の表現上の本質的特徴を直接感得できる別の著作物を創作する行為だと整理した。逆にいえば、共通しているのが、思想、感情、アイデア、事実、事件、あるいは創作性のない部分にとどまるなら、翻案とはいえない。 この「本質的特徴の直接感得性」という言葉は、いかにも法律家好みの...

弁護士、詐欺に遭う 〜交渉における社会心理学〜

弁護士、詐欺に遭う 〜交渉における社会心理学〜 パリ初日。シャルル・ド・ゴール空港。 「るるぶ」を広げている時点で、私は完全に“対象”だったのだと思う。 迷っている旅行者。情報を欲している人間。声をかける理由が、そこにある。 「May I help you? 😊」 ボランティア風の女性だった。 清潔感があり、落ち着いていて、過度な押しつけもない。 ここまでは、よくある「親切な人」である。 彼女は自然な流れで、滞在日数や移動予定を聞き出し、こう言った。 「それならゾーン4までの3日券がいいわよ」 後から確認しても、この情報自体は正しい。 だからこそ、私は疑わなかった。 「クレジットカード使えるわよ」という安心の付与 彼女は続ける。 「クレジットカード使えるわよ」 そして私は、彼女に案内されるまま券売機へ向かった。 ここで重要なのは、「使える」と言われたうえで、 “クレジットカードの表示がある券売機”に連れて行かれたという点である。 つまり、 ・言葉でも「使える」と言われている ・視覚的にも「クレジットカード対応」と表示されている この二重の確認によって、私の中で「これは安全な取引だ」という認識が完全に固まった。 弁護士として日常的にやっている「リスクの初期チェック」は、ここで終了している。 そして、使えない カードを差し込む。 使えない。 もう一度やる。 やはり使えない。 ここで、普通なら立ち止まるべきだった。 ・本当にこの機械は使えるのか ・別の機械はないのか ・駅員に確認すべきではないか しかし、その思考は出てこなかった。 なぜか。 すでに私は、 「ここはクレジットカードが使える場所である」 と確信していたからである。 見落とされた“決定的な事実” 後から分かったことだが、 その券売機は確かにクレジットカード対応だった。 ただし、 フランス国内の銀行発行カードのみ対応 という仕様だった。 つまり、 ・表示は嘘ではない ・しかし、私には使えない この“半分だけ真実”という構造が、極めて巧妙である。 完全な嘘ではないため、疑いにくい。 しかし結果として、こちらの選択肢を一方向に誘導する。 「現金なら大丈夫よ」という誘導 そして、ここで出てくる一言。 「現金なら大丈夫よ」 ここが、本件の核心である。 この一言だけを切り取れば、何の問題もない。 むしろ、合理的な代替案の...

弁護士は科学的証拠にいかに向き合うべきか?

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弁護士は科学的証拠といかに向き合うか? *分かりやすさのため一定程度正確性を犠牲にしています。予めご了承ください。 弁護士が「科学」にいかに向き合うか?その思考の一端を紹介したい。 (事例1 DNA鑑定の証拠力) とある自動車事故で,事故を起こした自動車を運転していたのが,Aさんか,それとも,同じ車に乗っていたBさんかが問題となった。 その交通事故の際に,エアバッグが開いており,そのエアバッグから,AさんのDNAが検出された。一方,このエアバッグからBさんのDNAは「不検出」であった。 この場合,エアバッグ中央部分から,AさんのDNAが検出された事実は,Aさんが自動車を運転していたことを推認する事実と言えるのであろうか? さて,裁判員裁判で,はじめてDNA鑑定に触れる方々が, AさんのDNA検出,BさんのDNA不検出 ,という証拠書類を見ると,即座に,「Aさんが自動車を運転していた」という判断に傾きがちなのではないだろうか? しかし,この「不検出」は,非常にくせものである。 現在のDNA型検査は,15座位のSTRと性別判定用のアメロゲニン遺伝子の検査を組み合わせたキットを使用するのが一般的である。 そして,この15座位のSTRにおいて,現場に残されていたDNA型とAさんのDNA型が一致した時,AさんのDNAが検出されたと扱われる。 そうすると,BさんのDNAが不検出とされていても,15座位のSTRの内,少なくとも1座位以上の,BさんのSTRが検出されていれば,BさんのDNAがエアバッグに付着した「可能性」は否定できないことになる。 さらに,15座位の内,1座位以上のSTRが「検出」されたか否かの判断も,実は流動的である。 検出されたか否かの判断は,エレクトロフェログラム(電気泳動像)を判別して行われる。 この場合,ピークが一定の判断者が定める一定の基準に達していなければ,BさんのSTRを示すピークがあったとしても,BさんのSTRは「不検出」と扱われる。 犯行現場に残されていたDNAがごく微量であれば、いくらPCR(ポリメラーゼ・チェイン・リアクション)で増幅を重ねようが、一定の基準を超えないことは珍しいことではない。 しかし、検出の基準を下げればよいわけでもない...

バックカンリースキーと「奇跡の自然」~2022-23シーズンまとめ~

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 バックカンリースキーと「奇跡の自然」~2022-23シーズンまとめ~ シベリアからの乾いた冷たい風が日本海で水分をたっぷり含む、そしてその風が3000m級の山々にぶつかり雪を降らせる。日本ほどの低緯度で日本ほど雪が降り積もる地形は世界的に珍しい。日本はスキーヤーにとっては奇跡の地なのであろう。 2022-2023シーズンは、11月末の立山に始まり、GWの白馬まで、山に20日以上入ることができた。 テントの中で弁論要旨を起案をしたり(録音データを飛ばして事務局が書面化)、白馬栂池リフトトップからハイクアップ中に警察署に電話したり、と仕事に追われている時は、我ながら何をやっているのだろうと思いながら、シーズン怪我無く過ごせた。 以下は、今シーズンのまとめ動画である。 https://youtu.be/7AUIN2JhbYA https://youtu.be/3QyzUNL26Nk

観劇日記「紫式部異聞」

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忙しさにかまけ だいぶ前のことになってしまったが、劇団四季で長く活躍された畏友天野陽一さん率いるAMSの「紫式部異聞」の観劇 日記を記しておきたい。 舞台芸術はとかく制約条件が多い。それは金銭的な場合もあるし 金銭的でない場合もある。 例えば1800年代後半 パリで隆盛を極めた グランドオペラ などはよく 第2幕でバレエが用いられたが、それは劇場のパトロン貴族が飲み食いした後 遅れて 劇場にやってきた時に、貴族の愛人である ダンサーが 第2幕で踊り始めるといった「経済的理由」があったようである(それを打ち壊したのがワーグナーの「タンホイザー」であると言われる。ワーグナーが芸術至上主義たり得たのは ルートヴィヒ2世という経済的制約を無視しうる パトロンがいたことも無視し得ない)。 また人気歌手を活躍させるためのドラマとは 必ずしも関係があるとは言えないアリアなどもそのような例と言えよう。 AMS の舞台は、スタジオの発表会でもあり 純粋にドラマのみの要請で劇を推し進めることは難しいし無理であろうと思う。予算も無限ではない。 しかしながら今回 紫式部異聞を見ていて心から驚嘆したのは、AMS の生徒さんにしかるべく 役を与えながら ドラマの流れが全く中断されていないという、恐るべき完成度であった。 天野陽一さん扮する権力者 藤原道長がその娘を帝の后にする、その娘につける 女官として 紫式部を配する中で「素晴らしい物語」 を集めていくというプロット、この物語集めの中で、ドラマを阻害することなく生徒さん一人一人に見せ場を与えていく天野さんの構成力はさすが であると思う。 歌と踊りも天野さんの踊り、ゲストダンサー「バレエ」でありながらドラマに必然性を与える踊りはもちろん、帝や彰子なども素晴らしかった。 プロデューサーとして 舞台の構想から(資金集めも含めた)計画、歌手・俳優として舞台に立ち、音楽から美術から指導まで全て成し遂げ、音と歌と踊りとドラマと美術の融合体 である総合芸術を作り上げた畏友天野陽一さんに、惜しみない賛辞を送りたいと思うと共に、やはり「次」も期待してしまうのである。

ブラームスと「ハンガリー舞曲」裁判

ブラームスのハンガリー舞曲 をご存知だろうか? 元々は ピアノ連弾用として発表され、その後 管弦楽用などに編曲されていった。 2023年3月26日小学1年生になった長男との思い出作りのために【子ども音楽会】で、ブラームスハンガリー舞曲第5番を 連弾してきた。 https://youtu.be/c5_KG1HGL00 さて素人親子の拙い演奏をさらしたついでに、弁護士らしく法律ネタをひとつ(笑) このブラームスのハンガリー舞曲集、ブラームスの発表当時、ブラームスがレメーニの著作物を勝手に使ったということで、レメーニから裁判を起こされているのである。 もちろんブラームス当時の著作権法と、現代の著作権法では考え方が違う部分も多い。しかし、このブラームスハンガリー舞曲訴訟は、現代の著作権法に照らしても「ありがちな」争点及び判断となっているのである。 ハンガリー舞曲はジプシー音楽(ツィゴイネルワイゼン)の形式に沿い、チャールダッシュの形で作られているものが多い(緩やかな部分と急速な部分を続けた舞曲)。 ブラームスはバイオリン奏者のレメーニと演奏旅行に出かけた時にこのような ジプシー音楽に興味を持ち ハンガリー舞曲集をまとめ上げていったと言われている。 しかしレメーニは、ブラームスのハンガリー舞曲集の大ヒット後、ブラームスが自らの著作権を侵害していると ブラームスを訴えたのである。 裁判の結論は、ブラームスがハンガリー舞曲集を「作曲」ではなく「編曲」として発表したこと、元となるメロディーの作曲者(著作者)が誰にあるかわからないということで ブラームスが勝訴した。 これを 現代の著作権 訴訟に当てはめてみるとなかなか面白い。 元々のメロディーの作曲者が誰かわからないとしてもバイオリニストであるレメーニが演奏するにあたっては それなりにアレンジをしていたのであろう。 ブラームスがハンガリー舞曲集を発表するにあたって、レメーニのアレンジ の創作部分を利用しているのであれば、それはレメーニ の著作権を侵害したと言いうる。 しかしながら、レメーニの創作部分を利用していないのであれば、著作者がわからない 著作物を利用したにすぎずレメーニの 著作権を侵害したとは言えない。 この裁判を現代風に整理すると次のようになる。 ① ブラームスが利用した旋律は著作物か?     ...

山岳事故における法的責任

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山岳事故における法的責任 (目  次) 1 はじめに 2 責任と法的責任  ⑴ 責任と法的責任の区別 ⑵ 法的責任とは何か ⑶ 法的責任の 3 類型 ⑷  3 つの法的責任の関係 3 山岳事故における法的責任=「過失」  ⑴ 責任の発生原因について ⑵ 民事及び刑事上の過失責任が生ずる要件 ⑶ 民事上の責任と刑事上の責任との差異 ⑷ 「過失」と「安全配慮義務違反」 4 過失の意義及び自己責任諭や危険の引受  ⑴ 自己責任論や危険引受の射程の温度差 ⑵ 過失の意義 ⑶ 注意義務の成立要件 ⑷ 過失と危険引受及び自己責任論との関係 ⑸ 各登山類型による危険引受の違い 5 裁判例検討 ⑴ 学校引率登山  ⑵ 大日岳訴訟  ⑶ ガイドによる引率登山  ⑷ 成年による自主登山 6 結語 1 はじめに  ⑴ 本稿では,山岳事故における法的責任について私見を述べる。 山岳事故における登山に危険はつきものであり,それが本質であるとすれば,どれだけ安全を志向しても,登山における事故は不可避であり,山岳事故における裁判例も集積される。 ⑵ 本稿では,まず,山岳事故における「法的責任」とは何かについて諭ずる。 その上で,登山において語られる「自己責任」や「危険の引受」が,山岳事故における法的責任を語る上で,どのように位置付けられるのかについて論ずる。 そして,それらを踏まえ,山岳事故等における裁判例を概観する。 2 責任と法的責任 ⑴ 責任と法的責任の区別 ア 責任という言葉は,政治的責任,道義的責任,倫理的責任と言ったように,非常に多義的に使われる。したがって,法的責任について論ずる場合,まず,法的責任が,他の政治的責任,道義的責任などと,どのように区別されるか明らかにする必要がある。 イ 山を愛する者は,登山における倫理観,道徳観を持っており,登山は,その倫理的規範,道義的規範の中で行われることが多い。 そこでは,例えば,「危険な冬山に行く以上,その危険は自ら引き受けるべきであり,事故が生じてもそれは自己責任である。」という文脈が用いられる。 それは,山を愛する者の倫理的規範,道義的規範としては説得力を有す...

その金、どこいった!!!(弁護士業務と粉飾決算)

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その金、どこいった!!!(弁護士業務と粉飾決算) 民事訴訟は、つまるところ「お金の問題」に帰着する。 その意味で、お金の流れを追うことが重要な作業になることが多い。 また刑事訴訟でも、経済事犯の場合、やはりお金がどのように流れたかを追うことが必要となる。 お金の流れを追うに当たって、基礎資料となるのは、やはり損益計算書、貸借対照表、総勘定元帳などの帳簿書類である。 資本主義における経済活動は、つまるところ、 「金を集めて、投資して、利益を上げる」という点に帰結する。 これを、普段よく目にする決算書類に落とし込むと、次のとおりとなる。 ⑴  お金を集める=BSの右側  ア  負債の部(借入等の他人の金)  イ  純資産の部(株主資本等自分の金) ⑵  お金を投資する=BSの左側  資産の部(集めたお金で工場建物機械設備を買う) ⑶  工場建物機械設備を使って売上て、経費を支払い利益を上げる=損益計算書 この、決算書類の作るために行う複式簿記は、非常にすぐれものであり、 「純資産」「負債」「資産」「収益」「費用」の、わずか5つの項目だけで、すべての取引や事象を説明できる。 さらに、たったひとつの取引であっても、その取引が、「金を集めて、投資して、利益を上げる」という経済活動全体のどの部分に位置づけられるのかが明確に分かる。 備品のボールペンを買う行為は「資産」としての現金が減り、「費用」に計上された結果、純利益が減り「純資産」の減少につながる。 総勘定元帳や決算書類は、決して数字の羅列ではない。 複式簿記をゲーテは、 「真の商人の精神ほど広い精神、広くなくてはならない精神を、ぼくはほかに知らないね。商売をやってゆくのに、広い視野をあたえてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要がなくなる。複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。」(ヴィルヘルム・マイスターの修行時代)と評したが、全く頷ける。 さて、この複式簿記によって作られた決算書類であるが、粉飾決算もよくなされる。 この粉飾の痕跡を見出すことは、たとえば破産事件などにおいて、破産者の隠し...

「誤差」と弁護士

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「誤差」と弁護士 誤差(ごさ、error)は、測定や計算などで得られた値 M と、指定値あるいは理論的に正しい値あるいは真値 T の差 ε であり、ε = M - Tで表現される(ウィキペディアより)。 さて,この「誤差」の概念は,常に弁護士業務とは切っても切り離せない関係にある。 正確には、「誤差」ではなく、「不確かさ」と言うべきかもしれないが。 たとえば,自動車運転過失致死傷罪や,危険運転致死傷罪,または交通事故損害賠償などで,交差点への進入速度を算定し,その交差点への進入速度から「過失」や「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為」該当性が争われることがある。 この場合,速度については,当事者言い分が真っ向から食い違うことがある。 そうすると,交差点進入速度は,車両損傷状況や,路面状況から推定していく他ないことになる。 この場合,現場に残された痕跡は,「事故後の状況」であるため,現場に残された痕跡から,まず,衝突直後の速度を推定し,衝突直後の速度から衝突直前の速度を推定していくことになる。 具体的には,車両変形状況やガードレール等の変形状況から,衝突時に生じたエネルギー量を推定し(加害車両のエネルギー量を「E1」,被害車両のエネルギー量を「E2」ととする),車両重量(加害車両重量を「M1」,被害車両重量を「M2」とする),衝突から停止までの距離(加害車両を「L1」,被害車両を「L2」とする),タイヤと路面の摩擦係数(加害車両の摩擦係数を「μ1」,被害車両の摩擦係数を「μ2」とする),重力加速度(「g」とする)から,エネルギー保存の用いて,衝突直後の速度を推定していくこととなる(加害車両の衝突直後の速度を「u1」,被害車両の衝突直後の速度を「u2」とする)。 このことから,以下の式が導かれる。 (この関係を理解するために,高校の先生や研究者の下に通ったことを付記しておく) そして,衝突直後の速度と,衝突直前の進入角(加害車両直前進入角を「θ1」,被害車両直前進入角を「θ2」とする),衝突直後の進行角(加害車両直後進行角を「φ1」,被害車両直後進行角を「φ2」とする)から,運動量保存の法則を用いて,衝突直前(≒交差点進入)の速度(加害者車両を「V1」,被害車両を「V2」とする)を推定していくことにな...

趣味と法律(模範演奏と音楽的著作権 JASRAC vs YAMAHAを題材に)

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趣味と法律(模範演奏と音楽的著作権 JASRAC vs YAMAHAを題材に) 過日,友人に誘われ,「スタンウェイ」を弾いてきました。曲目は,ショパンのワルツ10番(OP69-2)。かつて映画「ラ・マン」の最後に使われた曲です。 ワルツ10番 ミスだらけの演奏 これも法律的思索の1プロセスと考えれば下手な演奏をあえて晒すのも全くの無意味とは言えないのではないか、、、と言い訳しつつ。 我が愛読書,マキャヴェリ「君主論」に, 「アカイアの君主フィロポイメンについては、従来、著述家からいろいろの賛辞が寄せられたが、とりわけ彼が平時にあっても、戦術のことしか念頭になかった点がほめられている。友人と野外にでかけたとき、彼はたびたび立ちどまって、こう論じあったという。(中略)彼は、こうしてたえず反省を繰り返したから、自分で軍隊の指揮をとったとき、どんな突発的な出来事に遇っても、いちども対策に窮することがなかった。」(中公文庫 池田廉訳) という一節があります。 これを法律家に適用すれば、いついかなる時も、趣味のピアノを楽しんでいる時でも,「法的に」考えることを怠らないことになるでしょう。 JASRAC(日本音楽著作権協会)が著作権使用料を取る対象に音楽教室を加えるという方針を発表しました。これに対して,音楽教室最大手のヤマハが猛反発。JASRACに対して,著作権の使用料を支払う必要はないという事を確認してもらう為の裁判を東京地裁に起こしました。 JASRACは,作曲家など音楽を作ってその著作権を持っている人から委託を受けて,その音楽などを利用する人などから料金を支払ってもらい,それを作曲家などに分配すること等を業務としている団体です。 音楽教室が作曲家の音楽などを使った場合,その使用料を払う必要はあるのでしょうか。これまで音楽教室などが生徒さんにレッスンで先生が演奏するなどしても使用料を払うという事はなされてこなかったため,今回新たにJASRACが使用料を取るということについて,音楽教室などは強い反発をしているようです。 なお,ほとんどのクラシック音楽は,既に著作権が切れているため,ここで問題となるのは,J-POPのように現在も著作権が生きている曲の利用です。 このニュースを題材に,何が問題となるのか考えて行きたいと思います...

WEB会議による法律相談のご依頼について

WEB会議による法律相談のご依頼について  新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)による感染症(COVID-19)の蔓延により,2020(令和2)年4月7日,新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づき,緊急事態宣言が発令されました。  本稿執筆時(同年4月10日午前11時現在),東京高裁管内,大阪高裁管内の裁判所では,裁判期日の多くが取り消されています。  また,名古屋家庭裁判所管内の期日についても,現時点で4月13日~4月17日に予定されていたものについては全て取消されました。  現状,我が国においても,諸外国においても,社会的距離を確保する行動が強く推奨されています。  そのような情勢を受け,幣事務所も,WEB会議による法律相談のご依頼について,従前顧問先に限らせて頂いていたものを,一定程度緩和することと致しました。     現時点においては,MicrosoftTeams,Skype,zoomに対応しています。  御相談をお受けするのは御紹介を受けられた方のみとさせて頂くこと,及び,御相談をお受けする執務時間につきましては,顧問先及び顧問先の御紹介を受けられた方を除き,平日午前9時~午後6時までに限らせて頂くことについては,従前どおりとさせて頂きます。  昨今の緊迫した社会情勢に鑑み,本来,広くご相談をお受けすべきかとも思いますが,仕事の質を維持することで現在の顧問先,及び現在の依頼者様にご迷惑をお掛けしないよう,業務量を一定程度に抑えております。  予めご了承ください。  なお,法律相談料等の詳細につきましては,下記リンクをご参照ください。 弁護士費用について 菊地令比等法律事務所について

ノクターンOP 9-2を弾く〜Chopin,ノクターンで考える音楽的著作権〜

ノクターンOP 9-2を弾く  〜ショパン,ノクターンで考える音楽的著作権〜 ノクターンOP9-2を弾いてみた 2020年2月8日、豊川市フロイデンホールにてショパンノクターン OP 9-2を弾いた。 演奏が拙いのは所詮四十の手習いと考え、ご容赦願いたい。 ショパン,ノクターンの音楽史における独創性が比類ないものであることは、論を俟たない。 しかし比類ない独創性を持つショパンのノクターンですら、 その創作は模倣的要素から切り離せない。 ノクターンの語源は、ラテン語のnocturnus(「夜に属する」)で、nox(「夜」)の副詞形noctū (「夜に」)から作られた形容詞である。ショパンは、夜想曲をより自由でロマンティックな楽曲へと発展させた(ここは Wikipedia)。 ショパンのノクターンの初期の3曲、OP9の1から3は、フィールドのノクターンの影響を強く受けていると言われている。 フィールドのノクターンを検索して YouTube で聞いてみると、 確かに曲の雰囲気はショパンのOP9の1から3とよく似ている。 ショパンのOP9の1から3の、 着想やアイデア自体はフィールドのそれに依拠していると言ってもあながち間違いではあるまい。 この事を現在日本の著作権法という観点から見た場合どのようなことが言えるだろうか? 小説の映画など既存の著作物に依拠し、新たな著作物を創作する行為などを翻案と言う。 (翻訳権、翻案権等) 第二十七条 著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する。 結論から言えば、 アイデアや発想及び着想などを利用しても 著作権侵害になることはない。 著作権の保護対象はあくまで表現行為である。 事実そのもの、アイデアそのもの、思想そのものを利用したとしても、 それが登録された特許権、実用新案権、意匠権などを侵害することがあり得るにせよ、著作権侵害にはならない。 このことはいわば当たり前であって例えば、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」 が川端康成の創作表現であり著作権法の保護が与えられるとしても、例えばツイッターで「 清水トンネルナウ、抜けたら真っ白」という類の表現が禁止されるわけではないのだ。 技術その...

顧問弁護士の仕事① 〜悩みどころを捉える〜

顧問弁護士の仕事① 〜悩みどころを捉える〜 まず、日常的な法律相談に迅速に対応することが基本的な業務となる。 顧問先からのご相談は、クライアントの要望に合わせ、面談、訪問、電話、メールやLINE、Messenger、 Skype や Google slack、 Microsoftteams などを使い、柔軟にこれを行っている。 毎日顧問先から様々な法律相談が寄せられるが、 弁護士の回答は大きく分けると三つである。 ① 法的に可能である。 ② 法的に不可能である。 ③ 法的にグレーである。 取引先、従業員、銀行、株主などに対している経営者あるいは総務法務部門の担当者は、常に多忙であり、 ①法的に可能であること。 ②法的に不可能であること。 の判断について、いちいち時間をかけて考えたり、あれこれ思い悩んだりすることは、ストレスであろうし、 その労力は本業に振り向けた方がより企業経営として合理的であると思う。 そんな時顧問弁護士に電話やメール、LINE、Messengerで さっと相談し、 さっと答えが返ってきたら、 時間の節約にもなるし余計なストレスを抱え込むことも 減るように思う。 実は相談の6割ぐらいはこういう形で投げられたボールを,さっと打ち返す形で対応が 終了する。 当然であるがここでは条文判例文献などを明確に示し、 出来る限りわかりやすく根拠を伝えるように心がけている。 この「打ち返し」は 最近はメールやLINEで パッと回答することを希望される クライアントが多い。 根拠条文や文献の写メあるいは 所管官庁の URL などを貼り付けることもできるからだ。 この「根拠」を示すことが重要であり,これによって例えば相談者が社長に報告する際,また社長が取引先等に回答する際に,格段に報告・回答がしやすくなるように思う。 「ご懸念はごもっともですが,法的には,このとおり問題ありません。」 「お気持ちは分かりますが,それをやってしまうと,このとおり脱法行為になってしまいます。」などなど。 次に問題となるのは、 ③ 法的にグレーな場合である。 グレーでも白に近いグレーから黒に近いグレーまでその濃淡は千差万別である。 黒に近いグレーと思われても裁判で争った結果ひっくり返ることもある。 「その業務」を行って...

おうちルールを作る(少し法教育)

おうちルールを作る(少し法教育) 7歳の長女と4歳の長男がいる我が家には「おうちルール」といったものが全くない。 一応毎日公文を予定枚数やるだとか、僕が仕事の電話をしている時は事務所で静かにしているべきだとか、緩やかなものはあるけれど、例外が多すぎて家庭生活は、本質的にルール化になじまない。 そうは言っても ① ルールとは何か? ② ルールとはいかに作られるべきか? を考えることは必要であるから、子どもが「〜しちゃだめ」とか、「〜しなきゃだめ」と言った時は、リベラル・アーツ教育の一環として、子どもとディスカッションするようにはしている。 ここでは、質問、批判、反論、対案を明確に区別して議論しなければならない。 例えば、次の例はどうだろう? 田中くんは、私に嫌がらせをする。 私は、女だ。 だから田中くんは、女に嫌がらせをする。 そこで、、、 「田中くんは学校の女の子に近づいてはならない」 というルールを作ろう!! という声が上がったと仮定する。 まず、ルール提案者に対してなすべきは「質問」である。 ① 嫌がらせとは具体的に何か? ② なぜそれが嫌がらせなのか? ③ 他の誰に同じ嫌がらせをしたのか? ④ それらは女に向けた嫌がらせなのか? ルール提案者がこれらの質問に答えられない場合、ルールを作る必要性がそもそもないのだから、反論や対案など不要である。 ただ「反対」であると言うか「質問に対する根拠ある回答があるまでは議論しない」と言えばこと足りる。 よく議論の際、反対ばかりしてるとか、対案を出さないのはけしからんと言う人がいるが、質問とその回答状況及び回答根拠の説得力を検討することなくそのようなことをいうのであれば、およそルールとは何かを解さないものであって全く取るに足らない。 質問に対する回答の内容、及び根拠に説得力がない場合、次になすべきは「批判」であろう。 あなたに対する嫌がらせは、女に対する嫌がらせを意味せず、田中くんの「女に対する嫌がらせ」と言う事実は認められない。 などなど。 ここでは、批判とともに反論も必要となるかもしれない。  例えば、 あなたは「嫌がらせ」の定義について、嫌がらせを受けた側が嫌がらせをされたと感じれば、それは嫌がらせであると言う【被害者主観説】に...