DNA鑑定は万能か その可能性と限界に迫る リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 5月 14, 2017 「DNA鑑定は万能か その可能性と限界に迫る」(赤根敦 著 化学同人) 科学的証拠と言う名の「アナログ」 と言う当たり前のことを再認識できた点で良書だった。 他と区別し難い微細なピークと言ったアナログな情報を「解釈」され、綺麗に整理されて「鑑定書」と言う形になると、微妙なアナログ情報が捨象されて、出た、出ないと言う結果だけが、独り歩きしてしまうリスクがある。 DNAの本だけど、科学的証拠一般に当てはまる。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
弁護士は科学的証拠にいかに向き合うべきか? 5月 05, 2025 弁護士は科学的証拠といかに向き合うか? *分かりやすさのため一定程度正確性を犠牲にしています。予めご了承ください。 弁護士が「科学」にいかに向き合うか?その思考の一端を紹介したい。 (事例1 DNA鑑定の証拠力) とある自動車事故で,事故を起こした自動車を運転していたのが,Aさんか,それとも,同じ車に乗っていたBさんかが問題となった。 その交通事故の際に,エアバッグが開いており,そのエアバッグから,AさんのDNAが検出された。一方,このエアバッグからBさんのDNAは「不検出」であった。 この場合,エアバッグ中央部分から,AさんのDNAが検出された事実は,Aさんが自動車を運転していたことを推認する事実と言えるのであろうか? さて,裁判員裁判で,はじめてDNA鑑定に触れる方々が, AさんのDNA検出,BさんのDNA不検出 ,という証拠書類を見ると,即座に,「Aさんが自動車を運転していた」という判断に傾きがちなのではないだろうか? しかし,この「不検出」は,非常にくせものである。 現在のDNA型検査は,15座位のSTRと性別判定用のアメロゲニン遺伝子の検査を組み合わせたキットを使用するのが一般的である。 そして,この15座位のSTRにおいて,現場に残されていたDNA型とAさんのDNA型が一致した時,AさんのDNAが検出されたと扱われる。 そうすると,BさんのDNAが不検出とされていても,15座位のSTRの内,少なくとも1座位以上の,BさんのSTRが検出されていれば,BさんのDNAがエアバッグに付着した「可能性」は否定できないことになる。 さらに,15座位の内,1座位以上のSTRが「検出」されたか否かの判断も,実は流動的である。 検出されたか否かの判断は,エレクトロフェログラム(電気泳動像)を判別して行われる。 この場合,ピークが一定の判断者が定める一定の基準に達していなければ,BさんのSTRを示すピークがあったとしても,BさんのSTRは「不検出」と扱われる。 犯行現場に残されていたDNAがごく微量であれば、いくらPCR(ポリメラーゼ・チェイン・リアクション)で増幅を重ねようが、一定の基準を超えないことは珍しいことではない。 しかし、検出の基準を下げればよいわけでもない... 続きを読む
バックカンリースキーと「奇跡の自然」~2022-23シーズンまとめ~ 7月 04, 2023 バックカンリースキーと「奇跡の自然」~2022-23シーズンまとめ~ シベリアからの乾いた冷たい風が日本海で水分をたっぷり含む、そしてその風が3000m級の山々にぶつかり雪を降らせる。日本ほどの低緯度で日本ほど雪が降り積もる地形は世界的に珍しい。日本はスキーヤーにとっては奇跡の地なのであろう。 2022-2023シーズンは、11月末の立山に始まり、GWの白馬まで、山に20日以上入ることができた。 テントの中で弁論要旨を起案をしたり(録音データを飛ばして事務局が書面化)、白馬栂池リフトトップからハイクアップ中に警察署に電話したり、と仕事に追われている時は、我ながら何をやっているのだろうと思いながら、シーズン怪我無く過ごせた。 以下は、今シーズンのまとめ動画である。 https://youtu.be/7AUIN2JhbYA https://youtu.be/3QyzUNL26Nk 続きを読む
観劇日記「紫式部異聞」 6月 01, 2023 忙しさにかまけ だいぶ前のことになってしまったが、劇団四季で長く活躍された畏友天野陽一さん率いるAMSの「紫式部異聞」の観劇 日記を記しておきたい。 舞台芸術はとかく制約条件が多い。それは金銭的な場合もあるし 金銭的でない場合もある。 例えば1800年代後半 パリで隆盛を極めた グランドオペラ などはよく 第2幕でバレエが用いられたが、それは劇場のパトロン貴族が飲み食いした後 遅れて 劇場にやってきた時に、貴族の愛人である ダンサーが 第2幕で踊り始めるといった「経済的理由」があったようである(それを打ち壊したのがワーグナーの「タンホイザー」であると言われる。ワーグナーが芸術至上主義たり得たのは ルートヴィヒ2世という経済的制約を無視しうる パトロンがいたことも無視し得ない)。 また人気歌手を活躍させるためのドラマとは 必ずしも関係があるとは言えないアリアなどもそのような例と言えよう。 AMS の舞台は、スタジオの発表会でもあり 純粋にドラマのみの要請で劇を推し進めることは難しいし無理であろうと思う。予算も無限ではない。 しかしながら今回 紫式部異聞を見ていて心から驚嘆したのは、AMS の生徒さんにしかるべく 役を与えながら ドラマの流れが全く中断されていないという、恐るべき完成度であった。 天野陽一さん扮する権力者 藤原道長がその娘を帝の后にする、その娘につける 女官として 紫式部を配する中で「素晴らしい物語」 を集めていくというプロット、この物語集めの中で、ドラマを阻害することなく生徒さん一人一人に見せ場を与えていく天野さんの構成力はさすが であると思う。 歌と踊りも天野さんの踊り、ゲストダンサー「バレエ」でありながらドラマに必然性を与える踊りはもちろん、帝や彰子なども素晴らしかった。 プロデューサーとして 舞台の構想から(資金集めも含めた)計画、歌手・俳優として舞台に立ち、音楽から美術から指導まで全て成し遂げ、音と歌と踊りとドラマと美術の融合体 である総合芸術を作り上げた畏友天野陽一さんに、惜しみない賛辞を送りたいと思うと共に、やはり「次」も期待してしまうのである。 続きを読む